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鳥取大学医学部脳神経小児科50周年祝賀会:歩みを振り返る:依頼された挨拶

ご指名をいただきました。今、一人小児科医として21年目ですが、智頭病院の小児科医です。1975年2月、当時助教授の竹下研三先生による臨床実習に惹かれたたことが入局の動機でした。半世紀近い前になります。1977年4月、入局当時の思い出です。

最初の主題は「救急医療の脳波検査」です。
 痙攣重積症で、隠岐の島から自衛隊を介しての搬入例で、抑制できました。(小生はベッドサイドで学ぶ立場でした。)

 その際、痙攣重積症で、抑制できたと診ていたが、亡くなられた例を、吉野先生が話されました。「振り返って思うと、四肢の強直、間代性痙攣はなかったが、下顎が硬かったような・・・」と、心残りの述懐でした。肝に銘じました。
 私事、1981年から鳥取県立中央病院勤務となりました。
 今お話ししている主題の「救急医療の脳波検査」に係る症例をお話しします。約40年前の3例です。
@ 1例目:
 悪性リンパ腫で入院治療中の中学生男子が、午後、医局に居た際、病棟から「痙攣発作」との電話があり、若い医師などが即応しました。
 自身の想定外で、帰ってこないので、確認したら「ICUに転棟し、痙攣発作は抑制できた」とのことでした。
 ベッドサイドに行くと、四肢は異変がなかったのですが、眼球は右への偏位徴候があり、「痙攣は続いているよ」と話したら、怪訝な表情が返ってきました。脳波計を持ってきてもらい、みると痙攣重積症の脳波!
@ 2例目:
 重症新生児仮死出生で、てんかんの診療中で、痙攣重積徴候があった幼児。医局の飲み会で鳥取駅前に居たら、当直医から電話があり、「痙攣で受診し、痙攣は止まった」とのこと。が、気になり、タクシーで戻り、見ると静かそうに寝ていたが・・・。右手の親指のみが、時々間代様の動き。痙攣重積の脳波でした。気管内挿管をし、気道確保をした上で、ジアゼパム静注などで抑止できました。
@ 3例目:
 鳥取市内の病院小児科医から「痙攣が断続する」とのことでの搬送例。救急外来で脳波をみると、脳炎・脳症の脳波でした。痙攣は数日続いていましたが、脳波検査は予約制で未実施とのことでした。
 救急医療の脳波検査の土壌がなかった病院・小児科での診遅延例でした。
 入局当時、研修の一環として、終夜脳波を含め、脳波検査は研修の一環として技術、判読を体で覚え込まされました。アーチファクトの判読を含め、かけがいのない研修でした。
転じて、
入局間もない頃、外来で診断されていなかった入院例のお話をします。懺悔です。

 結論は、剖検をお許しいただき、脳幹腫瘍でした。頭部CT検査も実施していたのですが、当時の性能から、後頭蓋窩はノイズが多く、判読が難しかったのです。
 検査に頼らず、顔貌などから脳幹腫瘍の可能性が高かったはずです。
 彼は、突然の呼吸停止を来し、呼吸管理を4か月続けました。幸い、脳神経外科医の榎本先生がつくばから小児神経の研修でおられたことで、気管内挿管、やがての気管切開、人工呼吸器の管理法において、多大なご支援をいただきました。
 右も左もわからない、経験は皆無の研修初期の身で、生前に診断に出来ず、お母さんのお許しが得られ、剖検で診断に至った経緯は、46年を経過した今でも慚愧の至りです。
脳幹腫瘍に関連した医療体験です。

 1981年に中病に赴任して以来、脳障害の阻止を使命感として、ハイリスク新生児医療に邁進しました。が、一方、造血幹細胞移植の導入をすべく、当時、内科に適任者がいなかったことで、小生に内地留学研修を命じられました。当時の表現で、同種骨髄移植が可能になりましたが、症例数が少ないことで、自家骨髄移植も導入しようとの話になりました。当時、保険診療対象外の治療で、国立がんセンター中央病院の小児科が実施していたことで、門外漢でしたが、支援を得るに至りました。支援を受けるに至った背景に、1987年師走に日本テレビ系列のドキュメント番組で[骨髄移植への道]と題した放映がありました。日本海テレビのチームが小生を初期から追いかけ、指導を受けた兵庫医科大学輸血部にも乗り込み、中病での骨髄移植の経緯も撮影した内容で、これをがんセンター中央病院の大平睦郎医長ほかの面々が見ておられたのです。いわば、道場の門をたたき「頼もう!」と乗り込んだら、テレビで見た彼だ!と、開門され、道場に入った経緯でした。
 中病での自家骨髄移植が定着した後、脳小で従来治療で困難な脳腫瘍例が中病に紹介され、自家骨髄移植を実施した数例をも経験しました。
 逐一、がんセンターの大平先生に上申し、治療法に係る指示を仰ぎながらの実施でした。が、残念ながら、救命はし得たのですが、止む無く前処置した放射線治療による後遺症に悩まされました。

 約半世紀前のお話でした。過疎地病院で成育医療・子育てを支援する日々の小生です。これからの半世紀、AIの進化などが臨床にどのように貢献するのか、そして、脳小の素晴らしい後輩の方々がどのような活躍をされるのか、楽しみにしたく思います。

 脳神経小児科の精鋭、および、皆様のご活躍、ご健勝を祈念いたします。

 ありがとうございました。

中病で勢力を注いでいたハイリスク新生児医療についてです。
 発端は卒後2年目の1978年度、45年前のことでした。当時の水準が低く、自身が座学で学んだ知識が中病の医療を変えました。

 3年目、大学に戻り、MCV測定が契機となり、下半期は国立療養所松江病院勤務。竹下先生が「電気生理を専門にせよ」との方針でしたが、「新生児医療がやりたい」と造反し、4年目は大阪へ。破門状態でした。機会に恵まれ、5年目・1981年4月に中病赴任。
 1989年からの3年間、日本小児科学会が、周産期医療に係る都道府県別の成績を調査し、結果が学会誌に掲載されました。鳥取県は、致死的先天異常や在胎22-23週の出生が少なかったこともあり、新生児死亡率などの指標が全国で最も優れていました。

 これには、脳小医局などからの研修医の働きも貢献しました。→

自身が関わった時代、超低出生体重児、重度新生児仮死でのNICU退院例で、気管切開や人工呼吸器例は皆無でした。(人工呼吸器からの離脱が出来ず、NICU入院が長期になっての他施設転送例は皆無)

 即ち、中病NICU退院例で、医療的ケアを在宅で必要とする例がありませんでした。

 人工サーファクタントが保険適用になったのは1987年10月です。重いRDSの医療が激変するとみて、1981年1月から1987年末までの7年間、中病の医療成績をまとめて発表しました。

注)小生は、1981年4月の赴任で、同年1-3月は主に安藤幸典先生が担っていました。

 保険適用となる前に、中四国地区研修会が開催され、参加しました。当時の米国発のEBMは、在胎24-27週の児は皮膚が希薄云々で、輸液量が多めにしてありました。

 歴史が戻ります。1978年度、卒後2年目の中病での一般小児科研修当時、上司・安東吾郎先生の何気ない言葉「みずみずしく生まれた子はすぐ死ぬ。が、ひからびた子はしばし経ってから死ぬ・・・」でした。

 先進的なハイリスク新生児医療施設、内藤達男先生主導の国立小児病院(当時:現 成育医療センター)と、母乳育児推進で著名で less invasive を貫かれた山之内逸郎先生の国立岡山病院(現 岡山医療センター)で、私事、短時間でしたが、学びの機会に恵まれました。産科がない前者は、全例が他施設からの搬入で、A-line の確保など、invesive の状況でした。小生は less invasive に徹しました。

 輸液は最小限に留めました。指標は、ビリルビン、カリウムと血糖で、これらをモニターし、かつ、利尿剤を多用し、出生後8時間毎に体重測定を続けました。基本とした30ml/kg/24h.の輸液量で、体重が減らない児もいました。

 利尿期となり、状態像が落ち着いた後に、輸液量を漸増しました。

 サーファクタントの治験を担った医療施設からの発表がありましたが、輸液量について確認し、自身の方針を話したら、強く否定されました。「在胎22-25週の超低出生体重児は、皮膚が未熟で蒸散するので、輸液量は多めの設定」が、当時の米国発のEBMでした。

 が、数年後に、輸液量を絞り、腎血流量を増やし・・・と、指針が変わりました。

(EBMに固執していたら、川崎病の概念も出て来ない。指針・EBMは尊重するが、臨床では一人ひとりを真摯に診ることで、赤ちゃん・こどもから学ぶ姿勢を貫くことで、質の高い医療の展開に至るとの確信)

 某年、岡山大学産婦人科の力のある教授が退官後、鳥取市立病院の院長に異動され、産科医が充実しました。貴院長は、「市立病院ではハイリスク新生児医療、3次医療を担っていない。ハテ?」と。で、問い合わせがあり、小生が執筆した論文の別冊を提供しました。

 院長は「こんなに成績が良いのか!」と驚かれ、緊急帝王切開や危険な胎児仮死の際、小生が呼ばれ、出生に立ち会いました。必要例は連れ帰り、NICUで治療しました。定着後に、「信頼する後輩も行かせますから」と話し、理解を得て、チームとして臨めるようになりました。

 振り返りになりますが、利尿期に至らない出生後間もない頃に輸液量が多いと、動脈管開存(~手術例)、慢性肺障害(~BPD)、大脳脳室周囲の出血(~大脳障害)の頻度が高まります。自明のことです。

 Less invasive の姿勢は、智頭病院での一般小児科診療でも同じです。2003/11異動当初、お母さん方にボランティアで集っていただき、願いを聴きました。「痛いこと(採血・点滴等)はしたくない」「放射線被ばくは最小限に」「入院したくない」「早く退院したい」の4項目に願いが集約できました。

 過疎地病院における小児医療の実践は、成育医療・子育て支援と同義的です。21年目となった今も、子どもたちとの日々の出会いに恵まれている臨床医です。​

= 関連 =
2003/10 鳥取県退職記念講演「子どもたちから学びえたこと~小児科医としての夢

2009/04 日本小児科学会 依頼講演「過疎地病院における小児医療:医療圏一人小児科医の実践と夢
2023/10 診療用啓発資料:QR-code で提示

2023/11 智頭病院21年目 のご挨拶

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